むかし、いのししが、三里山から野岡の村にたびたび出て来て、さつまいもなどの農作物をあらしました。
村人は、いのししに出会うと、ひとたまりもなくかみ殺されてしまうので、安心して生活ができませんでした。
そのころ、野岡に、清水源之進(しみず げんのしん)というさむらいがいました。この人は一乗谷にいた朝倉義景のけらいでしたが、朝倉家が戦いにやぶれ、ほろびたため、野岡ににげのびて、住みついていたのです。
源之進は、勇気があって、力も強く、やりの名手だったので、村人たちはみんなで、
「いのししをたいじしてください。」
とたのみました。
「よし、まかせておけ。」
源之進のたのもしい言葉に、村人たちも
「わしらもおうえんするでの。」
と、作戦を話し合いました。
数日後、三頭のいのししが、人里近くに出て来ました。
「村のしゅう、打ち合わせどおりだ。それ、行くぞ。」
源之進は、一声さけぶと同時に、えの長さが六尺(1メートル80センチくらい)もある長いやりを持って、いのししの出た方へ走り出しました。
「それ、おくれるな。」
村人たちも、それぞれくわや竹やりなどを持ち、金だらいや太鼓をカンカン、ドンドン、打ちならしながら、源之進に続きました。
子どもたちも、力のかぎり金だらいをたたきました。
このようにして、みんなでいのししを追い立て、三里山の中腹に追いこみました。
いのししは、全身の毛を逆立て、目をらんらんと輝かせ、息も止まらんばかりの恐ろしさで、源之進目がけて襲い掛かってきました。村人たちは、足がすくみ、一歩たりとも動けませんでしたが、源之進は、
「エイ、ヤー。」
と、やりさばきもみごとに、大暴れするいのししに切り込みました。
大格闘の末、ついに、三頭のうちの一頭をつかまえ、その首を一刀のもとに切り落としてしまいました。
しかし、残った二頭が逃げてしまったので、源之進は、村人と相談して、大工の右門五郎という人に獅子の頭を作ってもらい、それをかぶっていのししを退治することにしました。
獅子頭に布をつけ、それをかぶった源之進を先頭に、村人たちは、また、金だらい、太鼓、なべ、かまをいっぱいたたき、何本もたいまつをともして、後に連なりました。
「猛獣殺喜(もうじゅうさっき)、猛獣殺(もうじゅうさつ)。」(今はモンサキ、モンサ。)
と声を合わせてさけび、山林をかけ回って、いのしし追いをしました。
この源之進の戦いぶりにおそれをなしたのか、あとの二頭は国中の方へ逃げ去ったきり、ふたたび野岡の村へ出てくることはありませんでした。
村人は大変喜んで、この獅子頭を神社におまつりしました。
このことがもとで、今でも野岡のまつりの前日には、獅子頭をかぶったしし追いの神事が行われています。
(出典:今立むかしむかし)