昔、太閤検地ということが行われました。
役人は、国中の要石をもとにして、土地の広さをはかり、農民から重い年貢を取り立てようとしました。
ところが、検地の時、役人は国中神社の境内の奥深くにあった約3アールの田を見過ごしてしまい、そのままになっていました。
その後、国中に自分の田畑を持っている男衆、27名が集まって、役人に見つからなかった田をどうしようか相談しました。その結果、村の隠し田とすることにし、力を合わせて、隠し田の農作業にも精を出しました。その甲斐があって、大豊作が続きました。この人たちは、
「国中神社の神様のおかげで、お米がぎょうさんとれたんや。」
と心から感謝し、みんなの長生きを祈ってお祭をすることになりました。
お祭に食べたものは、隠し田でとれたお米とごぼうでした。
そのころの村人は、生活が苦しく、毎日の食事は、こごめやあわひえ、そばなどをご飯にまぜたものでした。白いご飯は、お正月か、お盆ぐらいにしか食べられませんでした。
おわんの上に15cmの高さにもった物相飯と、ごぼう20本分の味噌和えは、大変なご馳走でした。これらのものをお腹いっぱい食べられるのは、1年中でたった1日、このお祭の日だけでした。何日も前から、この日の来るのを指折り数えて待ちこがれていました。
5合ものご飯を、一粒も残さず、神様に感謝しながら綺麗に食べました。
この祭の仲間(講)に入れるのは、自分の土地を持っている男の人に限られていたので、困ったことが起きて、お金が必要になっても、
「土地だけは手放さないぞ。」
とまた、土地のない人は、
「講に入るため、自分の土地を持ちたい。」
と、頑張ったそうです。
お祭の日は、役人の目を避け、2月17日とし、村の人以外には、絶対言わないようにしました。
これが「十七日講」「ごんぼ講」と言われるようになりました。今では、村の誰もが講に入れるようになり、国中にずっと伝えられています。
(出典:今立むかしむかし)